司馬遼太郎 没後20年 第二回 「峠」王クイズ選手権

越後と北越戊辰戦争

開戦前夜

京都で鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争の火ぶたが切られた1868(慶応4)年正月3日。前年暮れに倒幕、佐幕を調停すべく建白した長岡藩藩主牧野忠訓、家老河井継之助はまだ大坂にあり、高田藩は家老伊藤正温が上京途中で開戦を知って引き返し、倒幕か佐幕か態度を決めかねていた越後諸藩は混乱に陥りました。

鳥羽伏見の戦いが新政府軍の勝利に終わると、東海道、東山道、北陸道に鎮撫総督を立て、北陸道には総督高倉永祜、副総督四条隆平を据えて1月20日京を立ち、3月15日高田に到着します。この間に、不在の間に開城されて行き場を失った桑名藩主松平定敬一行が領地柏崎入りし、会津藩は藩領と預地である小千谷、小出島、酒屋(新潟市 1865年に会津領となり水原から陣屋を移動・会津藩はこの頃越後国内に22万石の領地を持っていた=新潟県史)へ防備のため兵を送り込み、古屋佐久左衛門率いる旧幕府軍、水戸藩脱走兵は態度を明確にしていない藩を脅しながら各地を移動するなど、物々しい雰囲気に包まれていました。

3月15日、北陸道鎮撫総督が高田に到着すると、越後諸藩の重臣が集められ、王政復古と新政府の方針を伝えられます。この時、長岡藩植田十兵衞は特に呼び出され3万両の提出か高田への出兵を迫られますが植田は藩主不在(河井継之助とともに江戸藩邸にいた)を理由に即答を避け、19日には鎮撫総督が関東不穏につき高田を離れてうやむやのままになりました。ここから北陸鎮撫総督軍、山県有朋、黒田清隆率いる薩摩兵らが高田に到着する閏4月19日までの59日間、諸藩の方針を巡って佐幕、勤皇さまざまな勢力がうごめきました。

東北では奥羽鎮撫総督が東北諸藩に会津・庄内藩の追討を命じ、これに対し会津庄内が同盟。仙台・米沢両藩は松平容保への寛大な処分を求める嘆願書が新政府に拒否されたことで、準備していた会津庄内討伐兵を解散して抗議の意を示します。会津藩はこの間も越後国内で軍事行動を続け、物資補給路として欠かせない新潟湊(新潟市)や4年前に拝領した酒屋(新潟市)にも派兵、沼田(群馬県)に布陣した新政府軍を迎え撃つため、三国街道般若峠(湯沢町)に陣地を築いていました。

長岡藩は藩主、河井継之助が3月1日に帰国して以降、山田愛之助らの恭順派は勢いを失い藩論は佐幕に傾いて行きます。新発田、村松両藩は隣接する会津藩から味方につくことを強要され、恭順、佐幕を巡る藩論が混乱を深めていました。幕府脱走兵の古屋隊は新発田藩、与板藩、新潟湊から脅迫まがいのやり方で軍資金を調達。彦根の井伊本家が新政府側についていた与板藩は7000両余りを奪われています。古屋隊が新井(妙高市)から飯山藩(長野県)を狙ったところで反撃に遭い、撤退時に高田藩を通過。既に恭順を誓っていた高田藩が通過を許したことを尾張兵らに追及され、4月25日高田藩はやむなく川浦(上越市)にあった古屋隊を襲撃。古屋隊は松之山を抜けて会津藩が押さえていた小千谷に合流します。

 

戦端

山県有朋、黒田清隆率いる新政府主力兵が高田に到着したのは閏4月19日。その晩、福島では奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵が仙台藩士に暗殺される事件が起こりました。翌朝には九条道孝総督が軟禁され、奥羽鎮撫総督府は有名無実化。恭順の道を絶った東北諸藩は一挙に会津藩を核とした同盟に向けて動き出し、立場を明確にしていない越後諸藩への働きかけが本格化します。新政府軍は会津藩が構える山間部の小千谷と、桑名藩が構える海岸沿いの柏崎にそれぞれ山東軍と海道軍を振り分け21日に高田を出立。同時に沼田に詰めていた新政府軍も三国峠の会津藩を伐つべく出撃し、24日般若峠で戦いが起こります。新政府軍1500名、迎え撃つ会津藩270名。撤退する会津藩士は途中の村を焼き討ちしながら小千谷に逃れました。そしてその2日後には山東軍が小千谷に近い真人(小千谷市)に至り、芋坂・雪峠の戦い(26日)。翌27日には小千谷に近い会津藩小出島陣屋も山東軍の手に落ち、海道軍と桑名藩の間では鯨波の戦い(柏崎市)が起こります。桑名藩は日没まで鯨波を死守したものの、会津藩が妙法寺(長岡市)まで引いた知らせを受けると、山東軍が柏崎に進撃してくることを恐れて妙法寺へ移動。二手に分かれた新政府軍はそれぞれ小千谷、小出島、柏崎を手中に収めます。

この時の会津藩の敗因について、米沢藩士甘粕継成は日記で次のように書き残しています。「会津兵は西軍を防ぐため数千の兵を配置しているが、そのために越後の民心は大いに動揺。会津が雇っている幕府歩兵部隊や水戸脱走兵が乱暴を働いたり略奪をするためにおおむね会津を憎み、ひそかに西軍に内通したり米沢に救助を求める者も少なくない。会津兵が越後の人々に憎まれているために人々が密かに間道や抜け道を教えたことが敗因となった」。

越後で最初の大きな戦いは、新政府軍と会津・桑名藩の間で行われたものでした。砲火が聞こえるところまで迫った長岡藩は摂田屋光福寺(長岡市)を本陣として山本帯刀を隊長に藩境を警備、見附を藩領としていた村松藩は見附西蓮寺に兵を送りますが戦闘には参加していません。

そして5月1日。前月26日に長岡藩軍事総督に就任していた河井継之助は、花輪彦左衛門を小千谷に派遣して会談を申し入れます。これが快諾され、2日に河井は二見虎三郎を連れて小千谷慈眼寺に入りました。河井は東山道軍監岩村精一郎と面会し、3万両の軍資金を出さなかったこと、高田に兵を送らなかったことをわびた上で、領内にいる会津、米沢兵が抗戦を迫りすぐに断れば戦になってしまうこと、藩論が統一できていないことを理由に、もうしばらく時間がほしいと領内へ侵攻しないよう懇願して藩主の嘆願書を渡します。しかし岩村軍監はこれを時間稼ぎの言い訳と判断し、「長岡領を通行するのを拒むなら兵馬の上で相まみえよう」と嘆願書の受け取りを拒みます。

翌朝長岡へ戻った河井は出迎えの槇吉之丞に摂田屋本陣へ藩士を集めるよう命じると、三島億二郎が詰めていた前島へ寄ります。三島億二郎は河井の幼い頃からの友人で江戸在勤中に佐久間象山塾に通い、戦後は長岡藩大判事として戊辰戦争からの復興に尽力した藩のリーダー格の一人でした。河井は「薩長は鼠輩の極み、自分の真意は全く通ぜず万事休した。ここに至れば戦いあるのみ」と告げると、三島は再三再考を促します。しかし「ならば自分の首を斬り三万両の軍資金を献納せよ」と答えた河井に、非戦論者の三島もとうとう開戦を決意しました。

長岡藩は5月3日に摂田屋本陣で河井継之助が開戦の決意を伝えた翌日、奥羽列藩同盟に加盟、6日には米沢藩の強い働きかけにより村上、村松、三日市、黒川藩が加盟。加盟を拒んでいた新発田藩は、仙台・米沢両藩から同盟しないのであれば攻めるしかないと迫られ、15日に加盟します。

 

朝日山(小千谷)〜長岡城

小千谷と長岡を結ぶ榎峠を先に押さえていたのは新政府軍でした。これに対して長岡藩は榎峠を見下ろす朝日山を目指して本道と山手の2方向から進撃。双方が朝日山奪取を目指して激しい砲撃戦が起こります。小千谷本陣と朝日山・榎峠は信濃川を挟んだ対岸にあり、しかも雨で増水していたため渡河できず苦戦を強いられました。

戦闘が始まって4日目の5月13日、時山直八率いる薩摩藩精鋭部隊が未明に朝日山攻撃を開始、続いて山県有朋が第二陣を率いる作戦が敢行されますが、桑名藩立見鑑三郎率いる雷神隊の活躍で山県到着前に先発隊は崩壊し、時山はここで討死。新政府軍は榎峠から退却しました。山県が「あだまもる砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と詠ったのはこの頃のことです。

一方、海岸線に沿って水戸脱走兵らと戦っていた海道軍は柏崎、椎谷、出雲崎を占拠して北上しており、出雲崎占拠後は長岡城下から信濃川を挟んだ関原に兵を進めていました。山県参謀は海道軍に長岡攻撃を命じ、18日に対岸から蔵王への砲撃と渡河作戦が開始されます。一方、同盟軍は小千谷の山道軍に備えつつ、小千谷から長岡城下まで20キロ近くある信濃川沿岸を防備しており、城下は手薄になっていました。19日になって2か所から渡河して新政府軍が城下になだれ込み、長岡藩主とその家族を栃尾に逃がした後城を捨てます。河井継之助は悠久山に兵を集め栃尾に退却しました。


加茂軍議〜見附・長岡城奪還

栃尾に引いた同盟軍は桑名藩領の加茂(加茂市)に本陣を置くことに決めます。庄屋市川家で開かれた軍議は22,23日の2日間にわたり、河井継之助は諸将に対し激しく決断を求め、見附、長岡の奪還を主張しました。河井が語気を荒げた背景には、村松藩は評議を開き笹岡総督らが速やかな降伏を提案、主戦派に押し切られ、米沢藩では総督色部長門に帰国命令が出たのを色部が拒否すると新津に駐屯していた中老若林作兵衛が越後国境に配備していた武器弾薬ごと帰国するなど、同盟諸国の動揺がありました。新政府軍が長岡城下に押し寄せた際に、動揺した村松藩士が長岡勢に発砲してしまっていた村松藩は「尽力せず、その有様も甚だ怪しい」(河井)と新政府軍への内通を疑われ田中勘解由が自刃。その後宿舎で近藤貢が息子に勤皇を説いて自刃すると、それに続く藩士が出る状況に陥っていました。

そのような状況下で見附奪還作戦が始まります。新政府軍の戦線が山間の栃尾から海岸近くの出雲崎までおよそ80キロに伸びていたところに、その両端に近い栃尾と与板(いずれも長岡市)へ陽動隊を出して攻撃。攻撃を続けている間に人員を本隊に戻して5月30日、本隊を3つに分けて3方向から見附を目指し、この間赤坂峠(三条市)などで激戦が繰り広げられます。造反を疑われていた村松藩は、赤坂峠で奮戦し、藩士7名が亡くなりました。そして6月2日、同盟軍は奇襲によって今町(見附市)から新政府軍を追い出しました。

その後7月24日に長岡城奪還作戦が決行されるまでの間、大きな戦闘は起きず膠着状態にありました。この間奥羽越列藩同盟は自身の正当性を訴える文書を欧米諸国に渡すべく使者を新潟湊に送りますが、諸外国の領事不在で失敗に終わる一方、武器弾薬の補給地である新潟湊を共同管理で占拠します。再三出兵を迫られていた新発田藩は同盟軍から城を包囲され、6月11日にようやく加茂に兵を到着させました。新発田藩はこれ以前に2度兵を出していますが、いずれも領地の農民に包囲されてやむなく引き返しています。その農民の中には「北辰隊」を組織して同盟軍と戦った葛塚(新潟市北区)の庄屋遠藤七郎もいました。

新政府軍は膠着状態を打開するため大規模な増員を行う一方、同盟軍の補給基地になっている新潟港封鎖を指示。同じ頃同盟軍では河井継之助が八丁沖を渡る長岡城奪還作戦を諸将に伝えています。決行日は雨で順延し、実行は24日。見附に集めたおよそ700名の藩士全員に、河井は酒肴代として金2朱を渡して激励しています。午後10時ごろから八丁沖を渡り始め、泥濘の中を進み富島村にたどり着いたのが翌日午前3時ごろ。宮下村の新政府軍前線基地を占領するとそこから4手に分かれて長岡へ進撃。この奇襲により新政府軍は混乱し、西園寺公望参謀は関原へ、山県有朋は小千谷へと兵もちりじりに逃走。長岡藩士を迎えた町人は「長岡甚句」を歌い踊り市中はお祭りのような賑わいになったといわれています。


総退却

しかし、この戦いで河井継之助は骨折銃創を負い四郎丸の昌福寺病院に入院。長岡奪還作戦の同日、新政府軍が準備していた新潟港封鎖の兵およそ1000人を乗せた船が新発田藩領太夫浜(新潟市北区)に上陸し、迎撃のために構えていた新発田藩が新政府軍に寝返って新潟を襲撃しました。新潟を守備していた米沢藩軍事総督色部長門以下40数名が戦死。新潟市街は500戸以上が放火により焼失。長岡城を奪還し小千谷攻略に意気を上げていた同盟軍にこの報が伝わったのは27日のことでした。増派された新潟上陸兵から挟み撃ちになることを恐れた同盟軍は守備を固めますが、29日新政府軍が三方向から長岡城下へ進撃すると、同盟軍は市中、武器庫、城に火を放って見附栃尾方面に退却。吉ケ平(三条市)から八十里越を抜けて会津へ逃れることを決定します。

八十里越の由来には諸説ありますが、実際の距離は80里(320km)ではなくおよそ31km。「一里が十里に匹敵する険しい道」と言われています。その道で戦病者を送り、ついで藩士のみでなくその家族も野宿しながらの総退却は、途中で力尽きる者もあり、幼子を谷底に捨てるなどの悲劇を生みました。下田(三条市)と只見町を結ぶ区間は1970(昭和45)年に国道289号線として認定され、現在も工事が続いています。

河井継之助は8月3日に八十里越の入り口である吉ケ平集落で一泊し、翌朝立って山中の木ノ根小屋で一泊、5日に只見叶津番所に入ります。宿所となった目明かし清吉宅には会津藩が差し向けた医師・松本良順が「西洋料理風の肉のたたき」を持参して診察に訪れ、手術を受けるため会津へ来るよう言われます。この頃には「死ぬことは覚悟していたがこんなに痛いことは覚悟していなかった」と松蔵に漏らしており、容易に動ける状況ではありませんでしたが、会津へ向かって12日に塩沢村に入ります。宿所となった医師矢沢宗益宅で亡くなったのは、16日朝。只見に抜けてから12日目のことでした。

一方、村松藩は新潟を占領した新政府軍の追撃を恐れ、8月1日城中で大評定を開き藩主を米沢に逃がすことを決定。新政府軍が間近に迫ると城下に火を放って津川口から米沢に逃れます。この時藩内の勤皇派である正義党200名が新政府軍の軍門に下り、会津討伐の先鋒を務めることになります。同盟軍の退却戦の殿は、河井継之助に代わって長岡藩軍事総督となった山本帯刀。会津藩に合流した後、城下で戦闘中に捕らえられ、打ち首となりました。

降伏後、戦争責任者として長岡藩では既に死亡していた河井継之助、山本帯刀の二名を差し出しましたが、村上藩家老鳥居三十郎、村松藩堀右衛門三郎らが死刑に処せられています。河井家とともに断絶させられた山本家をのちに再興するのが英才の誉れ高かった高野五十六。後の山本五十六です。

 

(新潟県史・新潟県百年史・河井継之助傳から作成)