第二回 「峠」王クイズ選手権

河井継之助を巡る人々

外山脩造

小説「峠」での初出は継之助が長岡町に作った「寄せ場」の場長として継之助の「友で学者」となっていますが、栃尾組小貫村(長岡市)の庄屋の長男に生まれ、同じく栃尾組来伝村の庄屋の長男だった大崎彦助とともに、この頃は河井継之助の弟子のような立場で改革を補佐していました。長岡場奪還戦で継之助が足に重傷を負ったところに居合わせて八十里越を付き添い、矢沢宗益宅に移る前に滞在していた目明かし清吉宅で「商人になれ」と言われています。その後は慶應義塾で学び秋田県に奉職した後大蔵省へ。渋沢栄一に能力を買われ、当時大阪財界を牽引し大阪商工会議所初代会頭の五代友厚の依頼で大阪財界に身を投じ、継之助の半ば遺言でもあった「商人になれ」を実践します。1882(明治15)年の日本銀行開業に際しては松方正義大蔵卿に請われて理事・大阪支店長に就任しますが、辞任後も大阪にとどまり、アサヒビールの前身「大阪麦酒会社」などさまざまな企業を設立して産業を興し、阪神電鉄の社長にも就任。戦時中の金属供出で失われましたが、阪神甲子園球場には外山脩造の巨大な銅像が建てられていました。

 


 

長谷川泰

福井村(長岡市)の漢方医の長男に生まれて外山脩造とは同年で、ともに耳取村(見附市)の私塾青鬣館で井上五蔵に学んだ幼なじみです。只見の河井継之助を診察に来た松本良順とは、松本の父佐藤泰然の順天堂で西洋医学を学んでいたため旧知の間。松本が主宰していた幕府西洋医学所で外科手術を学んでおり師弟関係にありました。戊辰戦争の時には藩医として従軍。その後西洋医学教育、都市衛生の向上に尽力し、順天堂を開いた師・佐藤尚中(松本良順とは義理の兄弟)の精神を受け継ぎ「済世救民」を掲げた医学校・済世学舎を設立。野口英世を始め著名な医師、研究者を輩出。1903(明治36)年に閉校しますが、明治の医学界に大きな功績を残しました。

 


 

河井すが

長岡藩家臣梛野家から輿入れし「峠」で継之助を補佐していた梛野嘉兵衛の妹。戦が始まると義父代右衛門、義母貞とともに他の藩士の家族同様城下から逃れますが、隠れていた湯沢町(長岡市)の阿弥陀寺で新政府軍に捕縛されて高田藩預かりとなります。その後許されて長岡へ戻りますが、河井家は山本家とともに敗戦の責任を負って取りつぶされていました。藩主牧野忠恭は河井家と縁戚にある(継之助の姉の子を妻に迎えている)森源三に禄を与えて扶養を命じています。従者だった松蔵の手を借り、1870(明治3)年に会津若松建福寺から河井家墓所のある栄涼寺に継之助を移葬し弔ったのち、森は開拓使出仕で北海道に赴任。この時継之助の父は既に没し、貞とすがはともに北海道へ渡り、最期を迎えました。森はかつて敵だった開拓使長官黒田清隆に能力を認められ、札幌農学校開校に尽力。2代目校長となっています。

 



奥畑儀平

赤坂峠の戦いで戦死した村松藩軍監奥畑伝兵衛の息子。村松藩は勤皇か佐幕かで揺れたまま、会津藩領に接しているため自藩の存続のために奥羽越列藩同盟への参加を選択せざるを得なかった面がありました。長岡城を奪われた時に動揺した村松藩士が長岡藩士に向かって誤射してしまう事件が起きたことから、加茂軍議では継之助が村松藩の態度を糾弾。これに対し村松藩では数名が抗議の自刃を遂げ、奥畑は激戦の中で敵からも賞賛を浴びるほどの壮絶な戦死を遂げています。当時幼少だった息子儀平は、成長して旧藩士とともに藩領だった下田郷へ茶畑の開拓に入ります。その後自由民権運動に身を投じますが再び下田郷へ戻り、同地で自ら発起人となり「静修義塾」の設立に尽力。漢学の素養が高かった諸橋安平と行動を共にし運営に当たりました。儀平のもとで学んだ安平の次男が、のちに大漢和辞典を編纂する諸橋轍次です。轍次は19歳で新潟第一師範学校へ入学するまで下田郷で過ごし、奥畑儀平と師弟関係にありました。