三条市と北越戊辰戦争

三条は戦国時代には上杉謙信の側近山吉豊守や神余親綱が治めていた地域で、信濃川と五十嵐川が交差する舟運の要衝、また長岡と繫がる三国街道中通り、南関東や北関東と結ぶ会津街道が通る交易の拠点として栄えていました。江戸時代から「金物のまち」として知られるようになりましたが、製造業とともに舟運を利用した販売網を広げたことが全国に知られるようになった大きな要因です。

見附市に隣接する栄地区では街道沿いの寺院などには砲弾や刀跡などのほか新政府軍にかかわる遺品も伝えられています。五十嵐川源流にあたる下田地区吉ケ平と只見を結ぶ八十里越は、奥羽越列藩同盟軍の往来や長岡藩主と藩士の敗走路として使われ、新政府軍の会津攻めの際には1ヵ月余りもの滞留地となりました。

 

八十里越

文化庁の「歴史の道百選」選定。旧街道の面影を残し、周辺には葎谷口留番所跡や八十里越道標などの文化遺産が残されています。河井継之助は8月4日雨の山中で一夜を過ごし、特製の担架に乗り八十里越を越えます。この夜、河井の乗った担架は一度も地面に下ろされることなく4人で担ぎ通されたという逸話が、ともに八十里越を歩き戦後長岡に戻った藩士の家族によって語り伝えられています。河井継之助による『八十里腰抜け武士の越す峠』は、眺望のない鞍掛峠を越え、村人が「里眺め」と通称する場所から越後の方を望んで詠んだとされています。

 

吉ケ平集落

河井継之助一行は1868(慶応4)年8月3日、八十里越の入口、吉ケ平村(現三条市吉ヶ平)に入り、肝煎椿庄之丞屋敷に宿泊。「会津ヘ行ったとて何のよいことがあるものか、己は行かない、置いていけ」と言って会津行きを承知しなかった継之助に庄之丞が「以仁王」や「雨生ヶ池」の伝説、村の来歴などを話して聞かせました。継之助は重傷の身を横たえ、その苦痛に顔をゆがめながらも、おとなしく時には微笑さえ浮かべ、八十里越を越えて会津への旅立ちを決意したと伝えられています。吉ケ平集落は昭和45年に集団離村し、現在吉ケ平分校跡に建つ吉ケ平山荘を中心に吉ケ平自然体感の郷が整備されています。
写真は昭和44年11月の吉ケ平集落 五十嵐稔氏撮影
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赤坂峠古戦場跡

下田郷最大の北越戊辰戦争激戦地。赤坂峠を挟んで奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が死闘を繰り広げ、500名を超す死傷者が出ました。最も激しい戦いは、河井継之助が長岡城奪還のために今町口に進攻した6月1日のことで、赤坂峠にあった新政府軍は、継之助らの今町占領により退去を余儀なくされました。現地には、戦死者の碑や大正14年地元有志らによって記念碑が建立されています。
住所 ≫ 三条市駒込

 

戊辰戦争役記念碑

長岡城再落城後、同盟軍は追走する敵と新潟港から上陸してきた敵に挟まれ、五十嵐川伝いに会津方面へ敗走。この時三条市街では同盟軍と新政府軍とが五十嵐川を挟んで戦闘を行い多数が戦死しました。西郷隆盛の弟吉二郎はこの時の負傷がもとで亡くなっています。
住所 ≫ 三条市曲渕

 

本寺小路

 慶応4(1868)年5月29日、長岡藩軍事総督河井継之助は加茂の本営前で今町攻略戦の配置を申し渡し、攻勢をかけることを指示しました。そして全藩兵に金5両ずつを与え「三条に着けば予定の宿舎があるが、だれもが明日をも知れぬ身の上なれば、飲んで遊んで半時を楽しんでよい。ただ、出発までには必ず帰隊し命を待て」と言ったといいます。翌日、継之助は白馬に鞭打ち、大隊長山本帯刀や長岡兵500人ほかを率いて三条に止宿しました。
 この時、三条町随一の歓楽街といえば東本願寺三条掛所(「三条御坊」とも呼ばれた現在の真宗大谷派三条別院)の参詣道「本寺小路」界隈でした。清河八郎が「新潟にも劣らぬ程の繁華なり」と記した繁華街「本寺小路」で、北越戊辰戦争の多くの兵士たちが酒を酌み交わしたことと思われます。
住所 ≫ 三条市本町2丁目

 

真宗大谷派三条別院

 三条町は交通の要衝であったことから、北越戊辰戦争の際に各戦地への集結、分進地となり、大きな本堂を持つ三条掛所(現在の真宗大谷派三条別院)は奥羽越列藩同盟軍の諸藩の宿営所となりました。慶応4(1868)年7月23日から3日間、会津藩の発願で諸藩戦死者の追善供養が営まれました。参詣の老若男女に紋付菓子が一つずつ与えられましたが、参詣者があまりに多く、菓子の行き渡らない者もあったといわれています。同盟軍が撤退した後の8月12日には、新発田藩士など300人の護衛で会津征討越後口総督仁和寺宮がここを本陣としました。
 東本願寺三条掛所は、元禄3(1690)年に創立され、「三条御坊」、「御坊さま」などとも呼ばれ大勢の参詣者があり大変賑わいました。本堂は文政11(1828)年の三条地震で焼失後、天保13(1842)年に再建された南北21間、東西27間の大規模なものでした。
 現在の本堂は、明治13(1880)年の大火後に再建されたものです。
住所 ≫ 三条市本町二丁目1番57号