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2024.10.23【中越地震から20年|全村避難を決断】山古志から学ぶ集落の再生【新潟】

【中越地震から20年|全村避難を決断】山古志から学ぶ集落の再生【新潟】
山古志の伝統行事『牛の角突き』の牛たち
長岡市山古志。現在358世帯722人が暮らしています。
山古志の伝統行事『牛の角突き』。勢子の掛け声と共に、激しくぶつかり合います。牛が傷つかないよう、引き分けにするのがルール。先人から受け継ぎ、守り続けてきました。山古志闘牛会の会長を務める松井富栄さん。20年前、就職先の青森から地元に駆け付けました。

■山古志闘牛会会長 松井富栄さん
「うちの父親は何とか家の周りに牛舎があって、倒壊してダメだったのもあったけど、生きている牛は助けたいという話を聞いて。」

中越地震で震度6強を観測した旧山古志村。道路は寸断され、山あいの村全体が孤立状態になりました。当時の人口は、約2200人。村長の長島忠美さんは、全村避難を決断しました。

■長島忠美さん
「私どもが生活をなしえる上では、考えられないくらい破壊しつくした。」

富栄さんは、父・治二さんと救出に動きます。

■山古志闘牛会会長 松井富栄さん
「だんだん弱ってきている。」

■山古志闘牛会会長 松井富栄さんの父・松井治二さん
「牛も牛舎がない。水に埋まってしまう。どんなことがあったって、自分たちの見える範囲の牛はみんな助け出そう。」

■山古志闘牛会会長 松井富栄さん
「長岡のほうに牛を避難させて、山古志地域、闘牛や肉牛もいたりとかなんとか牛たちも救出しよう。」

地震から半年余り。長岡市に造られた仮設の闘牛場で、角突きを復活させました。

■山古志闘牛会会長 松井富栄さん
「朝から夕方までドタバタだったが、5月4日に毎年できる喜びと、何とか生きてられたねとそこで顔合わせて元気でやっている姿が見られてやってよかった。」

一方、松井さん家族の自宅がある、山古志の木籠集落。土砂崩れで川がせきとめられ、ダムのようになり約半数の家が水につかりました。

■松井キミさん
「仏様が守ってくれる、これからのことも。」

木籠集落の区長を務めていた治二さんは、盆踊りを復活させるなど住民同士の交流を続け『集落の再生』を目指しました。

■松井治二さん
「何とか自分のいるところを定めて、そこで安心して暮らして終わりたい人も大勢いる。」

地震から3年。木籠の人たちは集落の近くに宅地を造成し、集団移転しました。治二さんは、山古志に戻るだけでなくその先のことを考えていました。

■松井治二さん
「この地と日本中の人たちとのつながりをもっと広めたい。」

もとの集落が見える場所に人が集える『郷見庵』をオープンさせました。復興の種をまき続けた治二さん。その息吹を感じながら、2015年に亡くなりました。

■山古志闘牛会会長 松井富栄さん
「道筋、目標に対しては、どういう道があって進まなければいけないのかということは考えていて。俺にはどうこう言わない・・・好きなようにしなさいと言う感じ。」

震災から20年―
あの日の記憶を伝えるため木籠の住宅は今も、一部が残されています。

■中学生に説明をするガイド
「瓦屋根の家は震災の年に建てたばかり、夏に入居しました。秋に水没しました。」

この日は、長岡市の中学生が現場を訪れていました。

■中学生
「1階が全部埋まっていて、自然の力はすごいと思った。」
「山古志にはたくさん来たことがあったけれど、こういうことがあったとはそんなに知らなかったので、たくさん勉強できてよかった。」

郷見庵も変わらず、営業しています。1階に直売所や休憩スペース、2階は交流スペースです。治二さんが亡くなったあとも、妻のキミさんと娘の智美さんが仲間と続けてきました。〝かぐらなんばん〟や〝さといも〟など、山古志で採れた野菜が人気です。

■松井キミさん
「おまえがこれが建ったからには当番だぞ、宣告されたから今でも一回も休まず頑張っているということは、娘も部落の人も協力して頑張ってくれるからここまで。」

治二さんの遺言を守り、5月から11月まで1日も休まず営業しています。

■篠田(松井)智美さん
「住んでいる人たちの心の豊でいられるような集落作りを人を減っているけど、大事にしてみんなとやっていければ。」

元日の能登半島地震。先月は豪雨被害が発生しました。被災地に向けて、今伝えたいことはー

■篠田(松井)智美さん
「命があれば何とでもなるんだなというのは、やっぱりいっぱい泣いたり悔んだり、色々な人と携わって笑ったり、ちょっとずつちょっとずつの積み重ねで心の持ち方は変わってきたし、頑張って生活していたら笑える日は来る。」

■松井キミさん
「頑張っていれば何とかなる。私は20年たって、あの頃は自分らも若かった、あれもみんなでしよう、これもみんなでやろうという意欲があったから、ここまで辿りついた。」
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