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2025.06.18【特集|戦後80年】極寒の地・シベリアに抑留「北の方角、みんなが騙された」過酷な体験を伝える〝100歳の語り部〟【新潟】

【特集|戦後80年】極寒の地・シベリアに抑留「北の方角、みんなが騙された」過酷な体験を伝える〝100歳の語り部〟【新潟】
極寒の地・シベリア抑留を体験した西倉勝さん(100歳)
シリーズでお伝えしている戦後80年。終戦後、57万人以上が極寒の地・シベリアに抑留されました。飢えと寒さに耐え、3年間の抑留生活を体験した100歳の男性が『現役の語り部』として戦争の悲惨さを伝えています。

「人間が人間が殺し合う、戦争はNOである。戦争はだめ。」

西倉勝さん、100歳。『現役の語り部』としてシベリア抑留の体験を伝えています。

刈羽郡二田村、現在の柏崎市出身の西倉さん。召集令状を受け取り、1945年1月に新発田連隊に入隊しました。

■西倉勝さん(100)
「私は長男で男1人しかない、親は反対。『行かないで』親は涙流して。男子たるものはお国のためにと教育されてきたから、己も思いながら赤紙が来たかということで行った。」

2週間後、朝鮮北部とソ連との国境付近にある会寧(かいねい)の部隊に配属。ソ連軍との戦いに備えました。

■西倉勝さん(100)
「6月にソ連と危ないということで、言葉は聞かない、〇〇作戦の名目で山へ上がって陣地構築、対ソ連対策。伐採してたこつぼじゃないけど、穴掘ってできないうちに終戦になった。」

1945年8月15日終戦-

ポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦。ソ連軍による武装解除が行われました。

■西倉勝さん(100)
「武装解除するから歩いてこいと伝令が伝わってきて、そのときは死を覚悟した。自決しよう、手りゅう弾を胸に入れて。みんな仲間がたくさんいるから、言われたとおりに武装解除のところに行く。」

ソ連兵から言われたのは「ダモイ」。
“帰国”を意味する言葉。西倉さんは、日本に帰れることを信じていましたが、列車に乗せられ向かった先はシベリアでした。

■西倉勝さん(100)
「南のウラジオストクと思っていたら、案の定逆だ、磁石が違う、北の方角、みんなが騙された、シベリアだと、一同の悲壮な声が伝わってくる。」

到着したのは、ハバロフスクからさらに北のコムソモリスク。約1万5000人が、大小14カ所の収容所に入れられました。抑留者に課せられたのは『厳しい労働』。冬になると、-30℃を下回る極寒の地で伐採作業や鉄道建設などに従事します。

■西倉勝さん(100)
「私は技術がないから肉体労働、土方、道路工事、民間の家庭の建築、やったことのない壁塗り。部屋の中で仕事をする人がいた。ロシアの兵隊の頭を切って、ニコニコしながら暖かい部屋で床屋になれば良かったと本当に思った。」

こちらが、抑留者が着用していた防寒外套(がいとう)です。
飢えに耐えかねて、現地の労働者が持っていたパンと袖を交換したと言います。当時の食事量は、黒パン350g・雑穀で作った薄いおかゆやスープが少量でした。シベリアやモンゴルなどに抑留されたのは、約57万5000人。このうち飢えや病気などにより死亡した人は、約5万5000人でした。

■西倉勝さん(100)
「与えられたものしかない。みんなやせ細って、栄養失調で死ぬ。(Q.亡くなった人は?)山へ運んで火葬するわけではないから、木の根っこに穴を掘って(遺体を)埋める。オオカミが来て、いたずらすることがあったようだ。『シラカバの肥しになるまいぞ』というのが合言葉。シラカバに埋められるから死んではだめだぞ。」

約3年間の抑留生活を経て、1948年(昭和23年)7月にナホトカから京都の舞鶴港に帰国しました。

■西倉勝さん(100)
「生きて帰ってきて良かった。行くときの家族も帰るときの家族も全員元気だった、それは何より。」

西倉さんは、都内の保険会社を定年退職したあとも、90歳になるまで年金相談の仕事を続けました。ちょうどそのころ、シベリアの体験を話す機会があり『語り部』としても活動を始めました。

都内で開かれたシベリア抑留に関する講演会。西倉さんは、時おり語気を強め、80年前の記憶を語りました。

■西倉勝さん(100)
「いつ帰れるのかな、今年帰れるのかな。正月になるとお互いに話をして、おまえさんのところはぼたもちは。2年目、今年帰れるといいな。3年目、やっと夏に帰ることができた。だいたい半分くらい、早く帰ってきたほう、亡くなった方を思うと申し訳ない。」

西倉さんは、戦争に負けて死を覚悟したこと、シベリアでの厳しい生活の様子を語りました。
西倉さんが、一番伝えたかったこととは-

■西倉勝さん(100)
「戦争だけは二度と起こしてはならない。師資相承に伝えたい。」

シベリア抑留の体験者の多くが亡くなっている中で、次の世代への継承が課題となっています。

■大学生
「教員を目指しているが、平和教育を頑張らないといけない。友達がやっていることで、劇を通して歴史を伝えることも心に訴えかけていけるものと思う。」

■大学生
「私たちの世代は、戦争を知らないので何でダメなのか、何で起きるのか、もっと若者でも納得する理由を私たちが提示する。もしくは、戦争経験者が聞いて落とし込んで伝えていけたら。」


2025年4月、戦時中に民間人や外国籍だったことを理由に戦争被害の救済を受けられていないと訴える団体が、国に補償を求めるパレードを行いました。

■西倉勝さん(100)
「私は100歳だから私が一番若い、経験した人が補償を受けないで亡くなっている。残っている方のためにも考えてほしい。」

西倉さんは、強制労働させられた外国籍の人で現在も生きている人だけでも救ってほしいと訴えました。
西倉さんにとっての戦後80年とは-

■西倉勝さん(100)
「早いね、あっという間に80年。平和できたから、この平和がこれから未来永劫(えいごう)続くように願っている。」
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