2025.12.19【特集】〝世界最大級〟の原発 なぜ柏崎だったのか?地元の「生き証人」に聞く:シリーズ新潟2025⑤【新潟】
再稼働すれば東京電力にとって福島第一原発の事故後、初の再稼働
新潟の2025年を振り返るシリーズ企画、5回目は〝柏崎刈羽原発の再稼働〟。再稼働をめぐる賛否で激しく揺れ、「地元同意」そして年明けの再稼働へと進もうとしている東京電力柏崎刈羽原発。
そもそも『首都圏の電源基地』と呼ばれる世界最大の原発は、なぜ柏崎に建てられたのでしょうか。誘致からこれまでの経緯を知る関係者は、いま何を思うのか。22日の県議会で再稼働が実質的に決まるのを前に、その道のりをたどりました。
柏崎市北部の荒浜、その先に見えるのは東京電力柏崎刈羽原発。
内藤信寛さん(85)。1968年に国が荒浜で原発の立地調査を始めたころ、柏崎商工会議所の若手職員でした。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「何にも使い道がないところだと言われていた。『不毛の地』が原子力発電所にとっては最大の利点だった。」
一帯に広がる砂丘地の活用が長年の課題でした。戦後、若者を中心に人口流出が続いていた柏崎市。砂丘に自衛隊を誘致する計画は失敗に終わりました。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「何か大きなプロジェクトが入ってこない限り浮上できない。」
そこに持ち上がったのが『原発』でした。
当時の市長は小林治助。その評伝によると始まりは63年、当選間もない小林のもとに地元・理研ピストンリング工業の松井琢磨社長らが訪問。「原発の立地に荒浜を」と提案しました。高度成長期の真っただ中、松井は荒浜出身でした。
5年後、1968年の市議会。小林は演説しました。産業立地で遅れをとるこの地に、原子力の平和利用を図ると。その翌年「誘致に踏み切る」と宣言したのです。市議会も応えました。1969年、深夜に及ぶ議論の末、誘致決議を可決。「豊かな郷土建設を目指す」と記しました。
以降、内藤さんたちは他県の原発を視察したほか、市民向けの周知活動などに取り組んできました。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「(小林)治助さんを市長に押し上げたのは、商工会議所が中心にやった。市長と一緒になって原子力発電所の勉強に取り組んだ。」
しかし、その後は難航。
1972年、地元の荒浜町内会の住民投票では反対が7割を超える結果に。
その時-
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「小林治助市長にすれば、国にすごい人がいた。田中角栄という。」
同じ年、地元出身の田中角栄が総理大臣に就任。石油ショックで資源不足のなか、国会で「原子力を重大な決意をもって取り組む」と訴えます。盟友だった角栄と小林。小林は東京・目白の田中邸をたびたび訪問。内藤さんたち商工会も「目白詣で」を繰り返しました。
転機は1973年-
小林は講演で原発立地自治体への経済振興策が欠けていると指摘しました。角栄もこれを強力に後押し。翌年(1974年)、立地自治体を財政支援する『電源三法立地法』が制定されました。
1979年-
小林は亡くなる直前にも見舞いに来た角栄と面会。原発問題を含む柏崎の将来を語り合ったといいます。二人に共通した思いとは。
小林の死後、角栄が語った言葉があります。
■田中角栄元総理
「全関東の国民総生産の40%が新潟県と福島県から発生した、送られる電力で・・・。それを東京よりも、なぜ福島や新潟が電力料金を高く払わなければならないのか。人がいいという問題ではない。」
漁業補償も決着。1978年に東電は1号機の建設に乗り出しました。しかし、これで終わりではありませんでした。
■元柏崎市議 矢部忠夫さん
「(Q.武道館は思い入れのある場所?)そうですね。公聴会と言うのがありました。」
1980年12月-
完成間もない柏崎市武道館で、2号機と5号機の建設に向けた公開ヒアリングが開かれました。全国から反対派6000人が集結。2000人の県警機動隊と対峙(たいじ)しました。
矢部忠夫さん(82)。当時、市の職員でした。
■元柏崎市議 矢部忠夫さん
「阻止行動をやった。地元の土建業の人にヘルメットを借りて。」
原発の安全性に疑問を持ち、反対運動を始めた矢部さん。
■元柏崎市議 矢部忠夫さん
「形式的な公聴会と捉えていた。反対意見を言っても、結局は推進の儀式だから。」
一方、反対派の包囲網を突破しようとした人たちの中には・・・
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「意見を発表する人をガードを突き破って送り込む立場だった、車で。『お前たちどこ行くんだ』と言われて『なぜ俺たちがいるか分かっているだろう。絶対だめだ』と。」
結局、反対派は解散。ヒアリングは実施されました。これを境に国策の原発は一気に動きます。
1984年-
1号機の核燃料を初輸送。列をなしたトラックが県境を越え、厳戒態勢のなか運ばれてきました。
1985年9月-
1号機は全国31番目の『原発』として営業運転を開始。総工費は約4800億円、調査開始から17年後のことでした。
■東電関係者
「ひとえに関係当局の指導と、地元地域の皆様の温かいご理解の賜物(たまもの)。」
そして今年(2025年)-
■花角英世知事
「新潟県としては(再稼働を)了解することとしたい。」
知事が容認したのは刈羽村に位置する〝6号機〟です。
着工は1991年。バブル経済が崩壊、ソ連が崩壊するなど国内外で転機を迎えた年でした。地面が深く掘り下げられていきます。圧力容器の台座を取り付けた後、核燃料を収める圧力容器を搬入。高さ21m、重さ910tの圧力容器が船から荷揚げされました。
1996年、試運転を経て営業運転を開始。
■東京電力 大槻泰暎建設所長(当時)
「地域と共に歩む発電所を目指して、これからも引き続き頑張っていきたい。」
420万㎡の敷地に建てられた原子炉は計7基。合計出力は821万kWと〝世界最大級〟を誇った『柏崎刈羽原発』。作られた電気のほとんどは首都圏へと送られました。
しかし、さまざまなトラブルや福島原発の事故を経て、いまは全基が停止中です。2024年以降、国が原発活用にかじを切るなか、再稼働の議論は県全体を巻き込みました。
そんななか、地元は-
■柏崎市 桜井雅浩市長
「地元中の地元として56年間、賛成も反対も激しい議論を積み重ねてきた。」
これまで柏崎市に入った『電源三法交付金』は1818億円(1978~2023年度)。地元経済界の期待は高まっています。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「やはり発電所が動くことによって町の元気が出るのではないか。東京電力の人々も、もう一度元気を出してもらって。」
ただ、ピーク時に10万人いた人口も7万5000人を切りました。1人当たりの市民所得は2012年以降、県平均を下回っています。
■元柏崎市議 矢部忠夫さん
「誘致のとき5つぐらい言った『人口が増えるとか、勤める場所が増えるとか、町が活性化するとか。それ、何も当たっていない。」
2025年11月に開かれた地元住民でつくる『地域の会』。賛否双方が意見を述べました。
■委員
「私の世代、そしてこれからの世代は稼働していくかどうかにかかわらず、この施設と向き合い続けなければならない。」
後年、商工会議所の専務理事になった内藤さん。講演で全国を飛び回りました。県外の人にも関心を持ってもらうためです。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「なぜ東京の電力が柏崎で発電するのか、もっと理解してもらいたい。」
反対の立場からも-
■元柏崎市議 矢部忠夫さん
「簡単に言えば(電気を)使うところで作ってくれと。」
早ければ2026年1月中にも再稼働する『柏崎刈羽原発』。
福島第一原発の事故後、初の再稼働となります。
いま思うことは-
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「謙虚な気持ちが必要だと思う。傲慢(ごうまん)にならないで、謙虚な気持ちで問題を解決することが大事だと思う。」