2026.03.11南相馬市から三条市に避難した親子「15年、あっという間だった」:東日本大震災から15年【新潟】
10年以上暮らした避難先の三条市から小高区に戻った菊池恵子さん
福島県南相馬市小高区-
原発事故のあと一時全域が避難区域でしたが、帰還困難区域を除き2016年7月に解除されました。小高区の人口は5887人、震災前の1万2834人から半分以下にとどまっています。
美容室を営む菊池恵子さん(63)。
4年前に母親の介護のため、10年以上暮らした避難先の三条市から小高区に戻りました。
■菊池恵子さん
「15年、あっという間だったんですかね。震災当時は新潟に避難したけど、すぐに戻ってこれるイメージだった。」
東日本大震災の発生直後、菊池さんの家のすぐそばまで津波が押し寄せ、高台に逃げたと言います。
■菊池恵子さん
「車出して子どもたちを乗せたときに黒いのが見えて、それが津波だったと言われた。」
原発事故が発生し、菊池さんは当時 長男の翔生さんと長女の葵生さん・祖父母の家族5人で三条市に避難しました。
■菊池恵子さん
「娘の体が固まって微動だにせず、どうしようと。とりあえずゲーム機だけ持ち出して、それでごまかしながら連れていった。」
震災から1年3カ月後―
ようやく自宅に一時帰宅することができました。翔生さんはいとこに譲ってもらったテニスシューズを持ち帰りました。
■菊池恵子さん
「これを履いて新たに頑張ると。」
NPOの職員として働きながら、2人の子どもを育ててきた菊池さん。子どもたちは三条の小・中学校を卒業しました。
避難先の三条では、幼いころから続けてきたテニスを通じて仲間もできました。
■菊池恵子さん
「三条の方たちはみんな温かくて、子どもたちがテニスができる環境になり知り合いになり教えていただいた。」
葵生さんは、母親と同じ美容師の道に。翔生さんは現在、新潟県内の高校に勤めながらテニスを続けています。この日は、自身が所属する十日町市内のクラブチームの練習に参加しました。
新潟に残る決断をした翔生さん。
それでも、ふるさと・南相馬市のことを考えることもあると言います。
■菊池翔生さん
「いまの僕があるのは、母校の長岡商業を卒業したというのもあると思うので、地元に帰ったら別の道もあったのかなと考えるが、三条で過ごした日々は自分のなかではいい思い出。」
震災から15年。
いま思うことはー
■菊池翔生さん
「学生のころは自分の好きなことが出来ることがうれしかったが、社会人になって好きなようにやらせてもらえたのを自分なりに形にして新潟県に恩返しをしていきたい。」
南相馬市の自宅の隣では、震災前まで営んできた美容室を再開しました。菊池さんが戻って2カ月後に母親が亡くなり、2025年5月に父親も亡くなりました。現在は、自宅で犬の虎太郎と暮らしています。いまの楽しみは週2回のテニスです。
これからの生活についてはー
■菊池恵子さん
「自己責任なので(子どもは)戻ってくることはないし、私も子どもに面倒をみてもらおうと思ってないし元気でいればいい。」