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2025.08.01【戦後80年|長岡空襲】92歳の語り部「目に入ったのは姉が倒れている姿」平和への思い【新潟】

【戦後80年|長岡空襲】92歳の語り部「目に入ったのは姉が倒れている姿」平和への思い【新潟】
語り部は現在7人、平均年齢は86.5歳
長岡空襲から80年という月日が流れ、その記憶を伝えられる人も年々少なくなっています。「語り部」として活動する92歳の女性に、その体験と平和への思いを聞きました。

長岡戦災資料館。焼夷(しょうい)弾の筒や空襲当時の写真など、戦争の記憶を伝える品々が展示されています。

池田ミヤ子さん、92歳。12歳の時、長岡空襲を体験しました。
5年前からボランティアで月に2~3回資料館に勤務し、当時の記憶や経験を伝えています。

■池田ミヤ子さん
「(当時は)爆風でガラスが割れて飛び散るのを防止するためにガラスに補強した。飛び散るとケガするものだから。」


1945年8月1日、午後10時30分。
アメリカ軍のB29による焼夷(しょうい)弾爆撃が始まりました。1489人の尊い命が失われ、市街地の8割が焼失しました。ミヤ子さんは空襲で大切な家族を亡くしました。姉の壽美子(すみこ)さんです。

■池田ミヤ子さん
「長女だけあってしっかりしていて明るい性格。小学校の唱歌をきれいな声で歌ってくれる朗らかな姉だった。まさか死んでしまうとは思わなかった。」

ミヤ子さんの10歳上でよく面倒を見てくれたという壽美子さん。東京で働いていましたが、東京大空襲から逃れて5月に長岡に帰ってきたばかりでした。ミヤ子さんは壽美子さんが亡くなったときのことを鮮明に覚えています。

■池田ミヤ子さん
「(ミヤ子さんは)防空壕(ごう)に入れられて、姉は(外で)消火作業をしていた。姉の声で『節子(2番目の姉)、ミヤ子出ていらっしゃい』と必死の声がしたから、はい出したら(壽美子さんは)倒れていた。直撃を受けた。」

町に火の手が上がる中で懸命に消火作業にあたっていたという壽美子さん。かけつけた母親が呼びかけたものの、すでに亡くなっていました。

■池田ミヤ子さん
「母親が倒れた姉の両手を引っ張って名前を叫んでいたが、姉は即死状態で声も立てず動きもしなかった。さっきまで姉の声がしたのに、えっ…という感じ。」

火が勢いを増す中、一家は壽美子さんを残して近くの水田に避難しました。そこには、ケガをした多くの知人の姿がありました。

■池田ミヤ子さん
「仲良くしていた友達の母親が2人やけどして畑の中に寝ていたのを覚えている。元気そうだった方の母親が破傷風で亡くなった。」

翌日、壽美子さんの遺体を運びましたが火葬場も空襲で焼けてしまったため、父親が亡骸(なきがら)を火葬しました。


そして空襲から2週間後・・・終戦。
ミヤ子さんは、焼けた長岡の街を見てがくぜんとしました。

■池田ミヤ子さん
「家から大手通りまで一望のもとに何にも木も家もない。長岡駅が丸見えだった。私らの生活はなかなか元に戻らなかった。」

当時、自宅があった場所を案内してもらいました。

■池田ミヤ子さん
「方向的にこのへんですね。この辺一帯全部燃えました。」

避難した水田もすぐ近くにあったといいます。

■池田ミヤ子さん
「田んぼのあぜ道で伏せて逃げていた。この辺は田んぼばかりだったから。(Q.当時の様子がよみがえる?)全く様変わりしているから、どこがどこだか知っている家もないし」。

ここを訪れるたびに、時間の経過を感じています。
ミヤ子さんは、空襲の語り部として3年前から県内各地で戦争の記憶を話しています。

■池田ミヤ子さん
「平和が大事ということと、自分の命を大事にすることを心にとめておいてもらいたいと思ってやっている。」

語り部は、現在7人。平均年齢は86.5歳です。
空襲から80年を経て、戦争を知らない世代にどのように伝えていくかが課題となっています。この日は長岡市内の中学3年生に講演しました。

■池田ミヤ子さん
「外に出てみたら宮内の理研(の工場)が燃え上がっていた。B29はうちの方に向かって飛んできて、どんどん焼夷(しょうい)弾が落ち始めた。」

姉が亡くなったときのことにも触れました。

■池田ミヤ子さん
「目に入ったのは、さっきまで私らを呼んで叫んでいた姉が倒れている姿でした。母親が姉の両手を握って一生懸命『壽美子』と呼んだが、びくともしなかった。」

最後に、ミヤ子さんは次の世代に向けてメッセージを送りました。

■池田ミヤ子さん
「自分の命は自分だけのものではありません。命を大切にして、しっかりと生きてください。何が大切で何が悪いか、もう皆さんはわかる年でいらっしゃる。」

■講演を聞いた生徒
「こういう生活をしているのは当たり前のことではなくて感謝すべきことだと感じた。」

■講演を聞いた生徒
「戦争をもう二度としてはいけないということを、強く後生に伝えていきたい。」

話を聞く表情を見て、やりがいを感じるというミヤ子さん。今後も、次の世代に自分のようなつらい経験をさせないよう活動を続けます。

■池田ミヤ子さん
「原子爆弾をどこかの国が使うのではないか。子どもたちが平和な国にずっと生き続けていられるのかと思う。間違っても戦争になんかならないでほしい。」
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