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2025.08.12【特集|戦後80年「満蒙開拓団」】柏崎から満州 90歳が語る壮絶な逃避行「いつまでも武器を持って力で人を」【新潟】

【特集|戦後80年「満蒙開拓団」】柏崎から満州 90歳が語る壮絶な逃避行「いつまでも武器を持って力で人を」【新潟】
国策で満州に渡った約27万人『満蒙開拓団』
戦前に約27万人が国策で満州に渡った柏崎の『満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)』。
柏崎から入植し、戦後の混乱の中、奇跡的に帰国を果たした90歳の男性が語る壮絶な悲劇とは-。

柏崎開拓団本部の前で撮影された写真。夢や希望をもって柏崎から満州に渡った人たちです。

当時7歳だった少年-
柏崎市に住む巻口弘さん(90)。終戦の3年前、1942年(昭和17年)7月に家族7人で満州に。一番下の弟・耕三君は生後8カ月でした。

■満州に渡った 巻口弘さん
「学校へ行く時間よりも私が長男で下に4人もいたので、その子守をしたりとか父親と母親は慣れない農作業に出かける。」

中国東北部は、かつて「満州」と呼ばれた日本の領土。約27万人が開拓団として満州に渡りました。このうち柏崎からは206人が入植、その目的はハルビンから約300kmの地域に新たな村を作ることでした。

■満州に渡った 巻口弘さん
「これがうちの父親、開拓団の男衆。郷に入っては郷に従えではないが、大変を承知で開拓団員のみなさんは(満州に)行った。」

満州にあったのは、理想とはかけ離れた世界。生きるために木を伐採し、荒れ地を開墾しました。満州柏崎村は、梹榔山(ひょうろうざん)が見える一角にあり、5つの集落に分かれていました。家は二戸一棟が基本で、それぞれに土間と2つの部屋があったといいます。

入植して3年目の夏、終戦直前にソ連軍が侵攻し生活が一変。父・栄一さんら男たちは現地召集され、母・シズさんと子どもたちの逃避行が始まりました。ソ連軍による略奪や暴行におびえながら、他の開拓団と共に翌年4月まで集団越冬することに…。

■満州に渡った 巻口弘さん
「毎日毎日(ソ連兵が)馬に乗って俗にいう女狩りに来る。子どもながらどう言ってみようもないが、女性はかわいそうだ。」


翌年秋に柏崎に戻ることができたのは、わずか33人。120人以上が命を落としました。巻口さんも、満州で耕三君と生まれたばかりの2人の弟を失いました。

■満州に渡った 巻口弘さん
「大勢の兄弟がいた。みんなむこうで亡くなっているから3人、私の弟、満州の土になった。(遺骨を)日本へ持ってきていない。」


父・栄一さんは終戦後に3年間シベリアに抑留され、日本に帰国。残された家族は現地の中国人に救われ、母・シズさんは中国人の妻となりました。巻口さんも中国人として8年間生活、18歳のときに日本に帰国しました。

■満州に渡った 巻口弘さん
「私が(船に)乗っている、母親が港でしょんぼりしている。」

父の死後、1975年に母・シズさんは32年ぶりに日本への帰国を果たします。

■巻口さんの母・シズさん(当時75歳)
「何とか生き延びて子どもだけでも日本に帰そうという気持ちがありましたから、無我夢中でした。中国人の妻となって、それこそ名ばかりの妻だった。」


帰国から13年後、UXは当時75歳のシズさんを取材していました。

■巻口さんの母・シズさん(当時75歳)
「私たちが満州開拓団として行ったのは、国の政策で行ったと思っている。戦争の恐ろしさをこれから先の子どもたちにはあわせたくない。」

シズさんは、2006年に93歳で亡くなりました。晩年は、中国で結婚した王徳財(わんとくざい)さんを日本に呼び寄せて一緒に暮らしました。

柏崎市立博物館には、満州柏崎村に関する写真や資料が展示されています。

■満州に渡った 巻口弘さん
「これが梹榔山(ひょうろうざん)、懐かしい。」

満州を起点に引き裂かれた家族の記憶、巻口さんはこの出来事を後世に伝えるため、柏崎市の博物館に資料を提供。自身の体験を子どもたちに伝える活動も続けてきました。

戦後80年、巻口さんが今訴えたいこととは-

■満州に渡った 巻口弘さん
「知らないことを言い伝えていく、残された今の自分の幸せを感じるほどじっとしていられない。いつまでも武器を持って力で人を圧して、自分たちの有利な境遇を得たいそんな考えは絶対にあってはならない。」
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