2026.03.17【特集】世界最大級の原発はなぜ柏崎市に?衰退の街が選んだ“原子力”という道:シリーズ・柏崎刈羽原発①【新潟】
原発誘致のカギを握った「田中角栄」
1回目はそもそもなぜ、原発が柏崎に誘致されたのか。
眠っていた資料と、当時を知る関係者の証言から、原発誘致の舞台裏をひもときます。
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新潟県柏崎市、西山町事務所。かつて町役場だった建物の一室に、その文書は眠っていました。
1969年3月の柏崎市議会議事録『原子力発電所の誘致決議』です。
原発誘致をめぐる数々の思いが、眠っていました。
1968年3月の施政方針演説―
「明治以来、表日本重点の開発政策」が「国内に格差を生み」、柏崎が不利に置かれていること。
「高い政治力」を結集することで「途(みち)が開ける」と信じていること。
その手段こそ、原子力発電という新技術であること。
言葉の主は、柏崎市長・小林治助。
助役を経て、初当選した直後の1963年。小林は2人の人物と会いました。柏崎に工場を置く理研ピストンリングの会長・松根宗一と、社長の松井琢磨。松根は言いました。
■理研ピストンリング 松根宗一会長(当時)
「これからの日本にとって、エネルギー問題は極めて重要。柏崎で原子力発電所を考えてみませんか。」
明治以降、日本屈指の油田地帯だった柏崎も、昭和に入ると衰退。度重なる豪雪や水害に見舞われたことから『陸の孤島』と呼ばれました。高度成長期も人口流出に苦しむ柏崎市が目を付けたのが、郊外に広がる荒浜砂丘。しかし、自衛隊の誘致計画は失敗に終わります。
松根たちがこの荒野に目を付け、小林のもとを訪ねたのは東京オリンピックの前年のことでした。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「何も使い道がないところと言われていましたからね。砂丘地だから農作物にも合わないんですね。砂地だから。」
内藤信寛さん。当時、商工会議所の若手職員でした。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「原子力発電所にとって最大の利点だった、人が住まない・誰もいない・何も役に立たない。ただ土地だけがあるという。」
人家はまばら。松林が広がるのみ。目の前に広がる日本海。冷却水は無尽蔵でした。
戦前、上海に学び満州の中央銀行に勤めていた小林。父の死に伴い、舞い戻った彼の目に映ったふるさとの衰退ぶりは歯がゆいものでした。地元商工会も後押ししました。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「何か大きなプロジェクトがないと、おぼつかないんじゃないかと。これをきっかけにして、産業の振興を果たしながら街を大きくしていこうと。」
市議会も深夜に及ぶ議論の末、誘致決議を可決。
しかし、荒浜では反対運動が巻き起こります。
そんなときでした。
■柏崎商工会議所 元専務理事 内藤信寛さん
「たまたま、小林治助市長にすれば国にすごい人がいたわけですよ。」
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原発誘致に苦戦する柏崎市長・小林治助に手を差し伸べた人物とは…田中角栄。
荒浜に近い当時の二田村(現在の柏崎市西山町)に生まれた角栄は、戦後まもなく29歳で初当選。権力の階段を一気に駆け上りました。
〝角栄の懐刀〟と呼ばれた人物は、角栄の言葉を間近で聞いていました。
■元通産官僚 小長啓一さん
「『君の生まれはどこだ』とおっしゃるので『岡山でございます』。『岡山というのは君、雪はロマンの世界だよな』と。一瞬どう答えていいかわからなくて戸惑っていたが。」
小長啓一さん。
通産大臣秘書官として、角栄に仕えました。
■元通産官僚 小長啓一さん
「『いよいよ俺が代議士になる前から取り組んできた日本列島の全体の改造問題、国土開発の問題に取り組みたいので、1冊の本にまとめたいが、手伝ってくれるか』と。」
翌日から、角栄は1日8時間、4日間にわたり胸に秘めていた構想を休むことなく語り続けました。
その口述をまとめた『日本列島改造論』。
序文でこう訴えます。
『日本列島改造論』より
―
「『表日本』と『裏日本』の格差は必ずなくすことができる」
新幹線・道路などのインフラを列島に張り巡らせるとともに、エネルギー政策の中心に据えたのが〝原発〟でした。旗を振ったのは通産省です。
■元通産官僚 小長啓一さん
「原子力発電は公害とは関係ないということなので、むしろ今後推奨されるべき電源であるというのがベースにあった。」
改造論はベストセラーに。
出版の翌月、自民党総裁選に勝利した角栄は第64代内閣総理大臣に就任。54歳、戦後最年少でした。
角栄は、国会でぶちあげました。
■田中角栄総理大臣(当時)
「日本列島の改造は、内政の重要な課題だ。民族の活力と日本経済のたくましい力を日本列島の全域に展開して、国土の均衡ある利用を図っていなければならない。」
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東京・目白の角栄邸。
毎朝20組の陳情客が訪れるなか、小長さんの印象に残っている人がいました。柏崎市長・小林治助です。
■元通産官僚 小長啓一さん
「かなり頻繁に見えていた。普通の陳情だけなら顔と名前を覚えないが、小林さんは克明に覚えている。」
2人の接点を示す写真が小林の自宅に残っていました。自民党総裁選でライバル・福田赳夫を決選投票で破った角栄。党本部そばの角栄事務所で見守る小林の姿がありました。
自民党総裁選にて―
「田中角栄君282票、福田赳夫君190票」
総裁の座を射止めた角栄は、柏崎関係者のもとに向かいます。バンザイの音頭をとったのは小林でした。
権力の階段を上る間も、柏崎とのつながりを欠かさなかった角栄。
柏崎で開かれた祝賀会に角栄が寄せた電報には『決断と実行』の文字が。
じつは、通産大臣時代から柏崎への原発立地という『決断』を促す地元の声を受けていました。
■元通産官僚 小長啓一さん
「田中邸に地元から市長さん以下、『電源立地を頼む』という話がずいぶん来ました。それを通産省事務当局に取り次いで、通産省でも電源立地候補として柏崎・刈羽のあたりを頭に置いた。」
1973年―
小林は講演で「立地地域への利益がなければ住民の不信感は一層高まる」と訴えました。角栄がこれに応えました。
■元通産官僚 小長啓一さん
「『新潟でつくって(電気を)新潟で使わないのはおかしい』と。」
■記者
「小林市長と田中角栄総理の平仄(ひょうそく)がすごく合っている気がする。」
■元通産官僚 小長啓一さん
「ぴたり合っていたと思う。」
発電所の利益を立地地域に還元する『電源三法交付金』につながりました。法案化が決まると、角栄は目白を訪れていた小林に「やったぞ」と告げたと言います。
その年の国会で角栄は訴えました。
「大都会に送る電力のために、なぜ泣かなければならないのか」と。
法案はスピード成立しました。
三法制定の翌75年―
東京電力は柏崎刈羽原発1号機の設置許可を申請。3年後の78年に着工しました。