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2025.05.01【特集|戦後80年①】届いた赤紙…硫黄島で戦死した父、77年を経て「DNA鑑定」で父の遺骨が息子の胸の中に -遺骨収集と遺族の思い-【新潟】

【特集|戦後80年①】届いた赤紙…硫黄島で戦死した父、77年を経て「DNA鑑定」で父の遺骨が息子の胸の中に -遺骨収集と遺族の思い-【新潟】
出征から77年の歳月が経ち父の遺骨が返還
シリーズでお伝えする「戦後80年」。1回目は、戦没者と遺族をつなぐ“遺骨収集事業”についてお伝えします。
戦争から何十年もの時をこえて家族のもとに返る〝遺骨〟。遺族の思いと遺骨収集の現状について取材しました。

東京から南に1250km、面積が約30㎢の島『硫黄島』。太平洋戦争の激化により、本土防衛の最前線となりました。
長岡市栃尾地区に住む高橋春男さん。父・留吉さんは硫黄島で戦死しました。

■高橋春男さん
「私はまだ小さかったからあんまり記憶がないんですけど、兄2人と母親は大変だったと思います。」

春男さんの実家は農業を営んでいて、戦時中も家族や近所の人で助け合って暮らしていたといいます。そこに届いたのが〝赤紙〟…春男さんが2歳のときでした。

■高橋春男さん
「私の2番目の兄は、赤紙をもらったときの父親の表情が鮮明に頭に残っているらしくて『もう顔色が変わった』と言って、私にもその話は聞かせてくださいました。」

1944年3月、父・留吉さんが出征。翌年の2月16日に硫黄島に配備されました。アメリカ軍が上陸したのはその3日後。わずか1カ月の戦いで、日本軍約2万人が亡くなりました。
家族のもとに届いたのは『戦死の知らせ』。しかし、遺骨を納める箱には何も入っていなかったといいます。

■高橋春男さん
「どっちみち、お骨なんて入ってなくて『石か木っ端が1枚入っているばっかだよ』って。おじいちゃんに当たる人が言ったような記憶はある。だからたぶん何も入っていなかったんでしょう。」

硫黄島には、いまだ1万人を超える日本兵の遺骨が残されているとされています。父・留吉さんの遺骨も戻らないまま70年以上が過ぎたある日、春男さんは市の広報に出ていた紹介を見て『遺骨収集事業』について知ったといいます。

■高橋春男さん
「たまたま広報の裏を見たら、そういうのがこう出ていたもんだから、じゃあ一応やってみようかと。役所へ行って話を聞いて手続きに行った。」


厚生労働省は、1952年から戦没者の遺骨を収集する事業を進めています。これまでに硫黄島で収集された遺骨の数は、約1万700柱。2003年からDNA鑑定を導入しましたが、いまだ多くの遺骨の身元が分からず遺族に引き渡すことができていません。遺族の高齢化が進んでいるため、2020年からは遺族の申し出により、遺骨のDNA鑑定が受けられるようになりました。

春男さんは、2020年7月にDNA鑑定のため検体を提出。
半年後、自宅に届いた結果は-

【血縁関係を認める】

■高橋春男さん
「いや、それはほんとにね、驚きました。激戦地区で散乱しているのかどうかはわかりませんけども、とても見つかるような状況ではないとは思っていた。まさか見つかるとは。『一致した』という連絡をもらったときは、本当に驚いて。」

父・留吉さんと判明した遺骨は、2014年に収集された遺骨でした。

■高橋春男さん
「本当にね、良かったなって。できれば母とか1番上の兄が遺骨に会えれば、これほど良いことはなかったなとも思ったが。それはね、ちょっとできない話ですけど。」


2021年3月12日。
父・留吉さんの遺骨が春男さんのもとに引き渡されました。出征から77年の歳月が経っていました。

■高橋春男さん
「ぎっしりとした重みは感じましたけどね。自分の私の胸にこう受け取れて、そして私の母や兄が入っているお墓に納めてやれるので、これで本人も成仏する。そんな感情を持ちました。」

これまでにDNA鑑定で身元が判明した遺骨は、硫黄島では6件です。このうち、遺族の申し出により判明した遺骨はわずか3件です。

なぜ身元の特定が難しいのか-
2025年2月、実際に硫黄島で収集事業に携わった方に収集の現場について話を聞きました。

■2月に硫黄島で遺骨収集事業に参加 土元さん
「土砂をふるいにかけて、その中にご遺骨があるかどうかを確認しています。(遺骨の大きさは)千差万別で、本当に細かい1~2mmぐらいの単位から、細かく砕けてたりするのがほとんどで、完全な形で出ることはまずほとんどありません。」

厚生労働省によりますと、身元の特定が難しい理由として、遺骨の状態により鑑定が困難な場合があることが要因の一つということです。また、土元さんは遺骨収集の難しさについて、火山活動が続く硫黄島という島の特性も関係しているのではと言います。

■2月に硫黄島で遺骨収集事業に参加 土元さん
「壕(ごう)の中にまだ残されている方々がいるのではと。その壕を見つけるのが非常に大変で、地形が変化しているっていうのが1番で、硫黄島は隆起し島がどんどんどんどん大きくなっている。」


終戦から80年の時が経ち、戦地も変化。その中で今も収集は続けられています。
2025年3月、石破総理は硫黄島を訪問し、アメリカのへグセス国防長官とともに日米合同の慰霊式に出席。4月には、天皇皇后両陛下が硫黄島を初めて訪問され、戦没者を慰霊されました。長岡市栃尾地区に住む高橋春男さんは去年、父・留吉さんが戦死した硫黄島を訪れました。

■高橋春男さん
「ちっぽけな島ですしね。硫黄が噴き出してて熱くて人が立ち入れない場所がまだかなりあるんですよね。よくこんなところで何万人もが戦っているなという感じ。」

長い年月が経ち、戦争を知らない世代がほとんどとなった現代に対しては、「現地を見てほしい」と話します。

■高橋春男さん
「内地の激戦地としては1番手付かずであるのが、この硫黄島だろうと思うんですよね。みんな復興して昔の状況というのは全くわからない。ぜひ機会があれば、1人でも多くの方から行ってみてもらいたい。後世に伝えられればと思う。」

厚生労働省では、戦没者の遺骨とのDNA鑑定を受け付けており、メールや郵送で申し込むことができます。
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